日々是口述171(R6 ・10・28)
内在す 神を知るとは 言の葉を 発する人の 言葉にぞ現(あ)る
人は神の子と言われる。キリスト教聖書にも書かれている。日本の古文献などにも、人は神の分け御霊を頂いた神の子の存在と言っている。
日頃の勉強会でも「皆さんは神の子としての意識をもって生きてください」と申し上げている。
合気道開祖・植芝盛平師は日頃の稽古の中で、「皆も(神の子として)猿田彦神となって世の人々を(神の平和の世界へと)導かなくてはいかん」と仰っておられた。
「もし我々も何かを願って神仏に祈る時、自分が神の子である意識を持って祈れば、親神である神には通じやすいはずである」と話している。
そこで思うことは、自分にはどのような神が内在しているのだろうか?という疑問である。「言葉は神なり」と言われている。宇宙が創造される瞬間を表す言葉に「初めに言(ことば)があった」とあり「言(ことば)(言霊)は神である」と言われるように、我々が発する言葉は正に内在する神の意志と思える。となると、そこに他人を誹謗したり、呪ったり、恨んだり、怒鳴ったりする時の言葉は、果たして神の言葉なのか。
人間は三次元世界に生きている以上、肉体を持ち、感情を持ち生きている。これを維持・保護するために、自分に危害を加える外敵に対して、恐れ、怒り、防御の感情を表すための、瞬間に出る言葉もある。その時の言葉が良き言葉であるはずはないのだが、これは神の子である命を護るための悪神を諫める神の怒りの言葉かもしれない。
この場合は極限の危機事態を回避する感情を発する言葉である。
ここで申し上げたいのは、日常において使う言葉である。人に対しても、物に対しても、それらは全ての究極は波動の存在とすれば、言葉の波動の共鳴共振は現象化、物質化として現れるのではないだろうか。
「神が人に言葉を与えたのは、人を愛し喜ばせ幸福にするためである」と言霊学で教わった。
確かに言葉は人を活かしもすれば、殺しもする。子供の世界でもいじめによる自殺もある。大人社会でも、いろいろな務め先でも起こっている現象である。
国の乱れは言葉の乱れ、とは太古から言われている。いつの時代も世を正し乱れを正し嘘のない社会の礎は言葉なのであろう。
今、自らに問うのは、日頃発する言葉は自分で発しているのだろうか?常にお任せの生き方を自任する自分の言葉は、ひょっとしてその都度、内在する神の意志によって、言わされているのではないか?とも思えるのである。
山本光輝 拝